<津軽藩からのお付き合い>  友好都市  群馬県太田市

上 州 お じ ま ね ぷ た

尾島ねぷたまつり(8月14日〜15日)

陸奥新報記事

尾島町より愛を「小さな町からのメッセージ」

太田市

 

尾島町と弘前市とのつながり

 昭和60年、(社)弘前青年会議所の講演依頼を受けた「日本ふるさと塾」主宰 萩原茂裕氏(埼玉県浦和市在住)は弘前をご訪問された際、博物館を見学し津軽藩史の中に尾島町の名前があるのを発見しました。この話を講演会で触れたところ、青年会議所メンバーが興味を持ち、同年6月に尾島町を訪れたのがきっかけです。

 津軽藩初代藩主 津軽為信は、関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康)の見方で軍勢を率い、美濃の国(岐阜県)大垣城を攻め、その功により家康から上野の国(群馬県)8ヶ村2000石を加増され、群馬県に津軽藩の飛び地ができました。この時加増された2000石のうち約半分の928石を尾島町の城域で占めていました。また、うち600石を占める大館村には当時大館村を領していた津軽藩の代官足立氏が居住しており、一族の墓は現在も大館東楊寺境内にあります。さらに二代藩主 信枚は側室辰子(石田三成の娘)をこの大館に住まわせ、大館御所と呼ばれていました。辰子は子 信義をこの地で産み、寛永8年(1631年)信義は13歳で家督を相続し津軽藩三代藩主となりました。

 これらの史実がもとで尾島町および尾島町商工会青年部と弘前青年会議所との交流が始まりました。昭和61年8月の「尾島まつり」では青年会議所が弘前ねぷたを応援出陣させ、祭りも大成功しました。その時以来、尾島町商工会青年部を中心にねぷた熱が高まり、自作で4メートルのねぷたを作るまでになりました。昭和63年には弘前市の茂森新町から大型ねぷた(6メートル木造)の骨組みが寄贈され、現在も活躍しています。

 平成3年の弘前ねぷたまつりには、「尾島町ねぷた出陣有志会」が参加。同年11月に尾島町と弘前市は友好都市提携を結び、以後子供たちの交流や津軽博などが行われ、650キロも離れている尾島町と弘前市はとても近くなりました。まつりの名称も「尾島まつり」から「尾島ねぷたまつり」に改称され、現在ねぷた参加台数は15台を越え、人口1万5千人の町が二日間で10万人以上もの人を集める祭りとなっています。尾島町の子供たちも、弘前市の子供たちと同じように誇らしげに参加しており、真に微笑ましいものです。

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