弘前ねぷたの歴史

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江戸時代(津軽藩)〜明治〜大正

昭和初期〜終戦

戦後〜昭和40年代

昭和50年代以降

○弘前名物「ねぷた喧嘩」
  〜痛快なる5分間〜

 

 ねぷた祭りは、もともと「眠り流し」といわれ、「とても暑くて、米やりんごの農作業の忙しい夏におそってくる睡魔(ねむけ)という目には見えない魔物を、追い払うための行事」でした。それは弘前、津軽だけではなく、全国にもあります。川で水浴びをしたり、紙で作った人形を流したりしました。また、村によっては、7日の早朝から1日に7回水浴びをして、わらで作った灯籠(とうろう)を流したりしました。

 津軽地方では、この7日に赤飯を炊いて農作業を休み、7回水浴びをして7回ごはんを食べるしきたりがありました。古くから、その「眠り流し」が灯籠祭(ねぷた流し)に発展しました。つまり、水や火によってケガレを清め、流そうとしました。これはミソギ、ハライともいい、ねぷた祭りはこの火祭りと流しによってできた行事でした。1日から6日の夜まで、心をこめて作った灯籠が練り歩き、7日(なぬかび)の朝には、この灯籠にケガレ(悪霊)をのせて流します。

 また、江戸時代(弘前では津軽藩の時代)から明治・大正・昭和の初めまで、せまい城下町の道でねぷたがすれちがう時、若者どうしが石を投げ合ったり、木刀でたたき合う「ねぷたけんか」が発生し、弘前城を境にして西側の下町と東側の上町のねぷたが、現在の本町坂や朝陽橋などで争ったりしました。これには、警察署も止めるのに苦労しましたが、昭和12年、国の戦争も激しくなり、しばらくねぷた運行は中止となりました。そして終戦を迎え、待ちかねたように再びねぷた運行が始まった時には「ねぷたけんか」はなくなっていたのです。

 そして戦後からは毎年恒例の祭り行事となり、昭和40年にはNHK連続テレビドラマのシーンにも登場したり、全国に生中継され紹介されるようになりました。また昭和55年、弘前ねぷたは青森ねぶたと一緒に国の重要無形民俗文化財の指定をうけ、現在のように日本を代表する夏の火祭りとなっています。

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昭和55年 文化庁より認定を受ける